2012年7月13日金曜日

【実録】3.11の帰宅難民




震災してから2回目の夏がめぐってきました。お盆をひかえ、あの日、笑顔で別れた家族や友人のことを思い出していることでしょう。
東京では東北のような最悪な難を避けられましたが、震災後は本当にみなさまご苦労されたと思います。
さて、ここでその当時、横浜で仕事帰りに地震を経験された友人の福島隆弘さんより、ぜひ、ご自分の体験談をお伝えしたいとメールを頂きましたのでご紹介したいと思います。
彼は映画の助監督さんで当日も撮影のためカメラ機材をもって移動中でした。この下の動画は福島さんが撮った動画です。(のちにTV局も使用しました。)映画やドラマで見られるようなパニック状態の動画ではありませんが、これがまさしく真実の動画だと思います。


 
「3.11のあのとき」 By 福島隆弘氏のメモより


横浜駅から東海道線に乗り、平塚へ出発した3分後くらい電車が揺れ始める。最初は線路を工事していたので、工事のために揺れてるのかと思う。ところが、直後に左右に大きな揺れ。そのまま電車が急停車。
電車のアナウンスで地震だと知り、1時間ぐらい電車に閉じ込められる。

やっとJRの社員により電車から出してもらえる。そのまま線路を歩いて横浜駅に戻る。

横浜駅に戻って初めてNHKニュースを駅構内で見る。JRの社員より電車の復旧の見込みがたっていないと聞く。どうしようか迷っていると、駅構内にどんどん人がなだれこんで来る。
この場にいたら、次に地震がきた時に逃げれないと判断し歩いて戸塚駅に向かうことを決断。

途中、倒壊したビルを目撃。水道管の破裂なのか、地面から水が吹き出している所を見る。
どんどん暗くなっていくなか、大勢の帰宅難民とともに歩く。横浜、戸塚間が停電しているらしく信号が消えている。そして国道1号線は大渋滞。サイレンを鳴らしながらの救急車が「無理に車を動かさないで下さい」発言を初めて聞く。(このころ携帯の電池が急激に減り始め、ラスト一目盛りになる。)

歩いている途中、コンビニに立ち寄るが、携帯の予備電池、おにぎりなどの食べ物がことごとく売り切れ。
スニッカーズで空腹をしのぐ。ちなみに歩いている途中のレストランなどは閉まっているところばかりで食事らしい食事はできなかった。

約6時間かけて戸塚駅に到着。電車、バスなどの臨時便が出ていないのを知ってガックリ。他人の会話を聞いて避難所があることを知り避難所へ。


避難所につくと男女会わせて200人ぐらい居た。そこで防災備蓄用のクラッカーをもらう。(おもいっきりナビスコリッツの味だった!)結局、朝まで避難所(スポーツセンターの体育館)で過ごす羽目になるが、とにかく寒い。じっとしてられないほど寒い。ウトウトしたのは15分ぐらい。

日の出と同時に避難所を出発。戸塚駅に向かい、警察官に聞くと電車の復旧の見込みがまだたっていないと聞くここで大船駅まで歩くことを決意。

歩いてみると大船駅が遠い。
歩く途中バスが走っているのを確認し、バスで大船駅に向かう。バスの中でおばちゃんに切れられる。ぺこぺこ謝る僕。2時間後、大船駅に到着。

JR側の連絡も混乱しているらしく、電車が走る、走らないが二転三転。結局、らちがあかないと判断。
藤沢駅まで歩くことを決意。

この区間は、さすがに足に限界がきたのか、ちょっと歩いては休みを繰り返す。2時間後、やっと藤沢駅に到着。やっと東海道線に乗れる。安全運転のためトロトロ走る電車。車内は超混雑。
ここでまた地震がきたら電車止まるんだろうなと思う。30分ぐらいかけて平塚に到着。平塚についた時、おもいっきり安心した。平塚駅でやっとご飯を食べる。その後、バイクで自宅に帰ることができた。


普段なら、横浜~平塚間は35分。今回、横浜~平塚間は22時間。


帰宅難民になった感想
とにかく携帯の予備電池と小銭は必要だと思いました。
携帯電話の充電がなくて、情報が遮断されるとなにがおきてるのかわからなくて、ひどい人は携帯の充電が切れて時間すらわからない人がいました。なんか東京がひどいことになってるらしいという噂も流れてました。でも僕は確認するすべなし。携帯に電池があった時でもつながらないつながらない。
あとは電車を強制的に降ろされたので、Suicaの手続きができず使えない。バスにのった時もおつりがないので現金でピッタリ払って下さいと言われました。小銭がないと公衆電話も使えないので、小銭も必要だなと思いました。


以上福島さんよりのご体験談でした。

2009年にすでに東京でマグニュチュード8規模の地震がおきたらどうなるのか?というアニメがTVの深夜枠で放送されていたことご存知でしょうか?
「東京マグニュチュード8.0」というタイトルです。普段からこのような事態になったとき、どうしたらいいのか?ということを想定して準備が必要ですね。

私たち家族は、1週間分の水と食料、簡易ガスコンロとそれに使うガスボンベをとりあえず用意しています。

2012年7月12日木曜日

東北沖大震災のときのアメリカ側レスキューの指揮官のインタビュー


SDJENメンバーのみまさま、およびこのブログを読んで頂いているみなさまへ

今回、ラジオの仕事でスペシャルインタビューをとってきました。震災後の救援活動を指揮された隊長のおはなしを伺い、その映像をアップできました。

去る3.11のLAPD(LA警察署)でおこなった追悼式に友人と参加したことがきっかけでこのインタビューを申し込むことができました。この時、SDJENの代表の大渡浩平さん、そして葛西祥子さんと現地で落ち合いました。

このとき初めて、壇上でおはなしするラリー・コリンズさんとお会いしました。
そして、この日本での救援活動の話をラリーさんより、もっと聞きたいと思い、数日後、祥子さんにご相談することにしました。祥子さんはLAPDの追悼式を企画されたMasako Unouraさんとお友達で、すぐにMasakoさんへ連絡をとってくださいました。もちろんMasakoさんも私の意向を理解して下さり、ラリーさんへコンタクトをとってくださいました。

ハッキリ言ってこんなにスムーズにインタビューが出来ると思ってもみませんでした。ラリー・コリンズさんは普段はロサンゼルス郡で起こる災害や緊急事態のときに隊員の指揮をとる指揮官です。そんな偉い方が、私のような主婦ごときにお時間を割いて下さるのだろうか?お会いするまでドキドキでした。なおこの裏話は私のブログにも書きました。PART.1 と PART.2 にわかれていますので読んでみてください。
これもAtsumiさん、Akoさんなど、沢山の方々の助けがあったからこそと感謝でいっぱいです。

結果として素晴らしい経験ができましたのでどうぞ、みなさまもその成果をご覧になってください。
なお、インタビュー画像の中に当時の地震と津波の映像をはさみました。こちらは岩手県大船渡の老舗の齊藤製菓(会社)の専務さんのご厚意で使わせて 頂きました。


 
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上の動画はラジオでも使われた動画で日本語吹き替え版です。
(生番組でラジオと一緒にUSTREAMでもオンエアーしました。)


 

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この動画はラジオ放送終了後に英語圏の方でもご理解できるようにアップした動画です。
一応、日本語字幕をつけました。


東北エリアの方々のご苦労が続いておりますが、今年の夏も日本では蒸し暑く、たいへんだと伺っております。アメリカや日本でも他のエリアに住んでいますと、あの3.11は単なるニュースまたは最悪の出来事として日常の中に埋もれていく感じがします。しかし、震災地やいまだに避難している方々は今もなお、現在進行形なのだということを忘れてはならないと思います。